ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス (Mikalojus Konstantinas Čiurlionis)は非常に言いづらい名前かもしれないが、リトアニア人にとっては誰もが知っているに違いない。
チュルリョーニスは1875年に現リトアニア南部で生まれ、リトアニアの代表的な芸人である。作曲のかたわら画家として活発に活動しており、短い生涯の間、リトアニアの美しさや精神的文化を表現する作品数を多く残した。
幼い頃からコンスタンティナスはオルガン奏者をやっていた父親からピアノを習って受けて、人生を音楽に捧げるつもりだった。彼の才能を認めた貴族のオギンスキ公爵は9歳のコンスタンティナスを支援して、 自分自身が校長している音楽学校に受け入れた。 ワルシャワ音楽院に進学したチュルリョーニスはピアノや作曲を改善しようと努力し、結果、優等な成績で音楽院を卒業した。
ドイツのライプツィヒから帰ってきたあと、子供ながらの夢を生かせるために、ピアノの個人レッスンで生計を立てながらワルシャワ芸術学校で訓練し始めた。
画家としてのチュルリョーニスは象徴主義なのか、あるいはアール・ヌーヴォーに誘惑されたのか、ほとんどの絵画は独自の幻想的な画風で描いた。リトアニアの民謡文化や異教の主題はもちろん、ヨーロッパで19世紀末に流行ったジャポニズムの影響を受けたとも見られる。
晩年にロシア帝国の中で人気のある展覧会を開きたり、ヨーロッパの美術が栄えるまちへ旅行をしたりしているうちに、経済的に失敗し、精神異常も起きた。1909年に作家のソフィヤ・キマンタイテ=チュルリョニエネ (Sofija Kymantaitė-Čiurlionienė)と結婚した。闘病生活に負けないように作曲も絵画も続けていたが、1911年に肺炎が併発してしまい、同年にわが娘が生まれたことを知らないまま、35歳で他界した。
だんだんと、リトアニアや東ヨーロッパ圏で評価が高く、才能溢れるチュルリョーニスは世界中にも好評を博していく傾向があるようだ。最近の5年間の間、フランスのオルセー美術館、ベルギーのゲント美術館などでチュルリョーニス展が人の気を引いた。
日本とチュルリョーニスの初出会いは1970年代に美術評論家の一郎加藤氏が紹介した事から始まる。はじめてチュルリョーニスの絵画で写した日本画の影響について述べ、人の好奇心を起こしたと思われる。1992年に東京セゾン美術館でチュルリョーニス展が開かれ知られるようになった。それから10年も経てないうちに、2010年、「芸術新潮」には「チュルリョーニスを知っていますか?」というイラスト豊富な記事が掲載された。「人間というのは、一つの名札だけ、「音楽家」とか「プリスト」とか、つけられるものではないでしょ。」と一回語った多才なチュルリョーニスはこの言葉を標語にして、音楽家としてだけだはなく、画家としても、詩人としても、研究者としても、自分の視野を限らずに、多角的に上達していた。
記事の著者: Nina Ždanovič (ニーナ ・ ジダノビチ)
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