リトアニアの歴史(概要)

リトアニアの歴史

12世紀―18世紀

現在のリトアニアに地域に人間が住み始めたのは、紀元前1万年頃です。リトアニアの名前が初めて書類に名乗ったのは1009年、ドイツのクベドリン グ史記です。12-13世紀頃、リトアニア人居住していた地域はヨーロッパの辺境に過ぎなかったにもかかわらず、ロシア、ポーランド、チュートン騎士団、 リヴォニア騎士団の注目を集めるようになりました。当時は、バルト海東岸に居住していた部族の状勢も変化し、カトリック宣教師の注目を引くようになりまし た。また、十字軍にとっても、この地域は関心の対象となっていました。

 

Annals of Quedlinburg リトアニアの歴史

 

Lietuvos-vardas-1009-metais リトアニアの歴史

しかし、当時のリトアニア人は自分たちの独立を固守し、ミンダウガス大公が国を統一しました。1251年ミンダウガス大公はリヴォニア騎士団長から洗礼を 受け、その2年後、ローマ法王の使者より国王の冠を受け、ここにリトアニア王国が誕生しました。1263年、ミンダウガス王が殺害された後、リトアニアの キリスト教は弱まり、周囲のキリスト教諸国からリトアニア敵視されるようになりました。1386年、リトアニア大公ヨガイラはポーランドの王女ヤドヴィー ガと結婚し、リトアニアがローマからキリスト教を受け入れることを約束しました。

Stamp リトアニアの歴史

ポーランド王ともなったヤゲウォは東ヨーロッパにリトアニアのゲディミナス朝の勢力を強め、当時のルクセンブルグ朝、ハブスブルク朝と同じレベルの位置を 築きました。とりわけリトアニアの歴史の中で最も功績をあげたのはヴィータウタス大公(1392年―1430年)です。彼の海外政策によってリトアニア大 公国はヨーロッパ最大の国となり、その領土はバルト海から黒海にまで及びました。

LT and Poland 1799 リトアニアの歴史

Grand Duchy of Lithuania リトアニアの歴史

16世紀半ばまで、戦争を経験することなく、リトアニアの政治、経済、社会、文化は急速に発展しました。

キリスト教徒となったリト アニアの豪族や貴族は次第に勢力を増し、国政に関わるようになってきました。16世紀の前半にはモスクワとの戦争が始まり、また、トルコ人とタタール人の 脅威が増して、リトアニアの国際情勢は悪化してきました。そこで、リトアニア大公国の支配層はポーランドとの同盟を望むようになりました。1569年ポー ランドと同盟が結ばれました。これによりポーランド王とリトアニア大公国は二つの民族から成る一つの共和国となり、共通の国王と立法機関セイマス、共通の 外交と通貨が定められました。同時に、リトアニアにもポーランドにも、別々の名称、国土、国境、軍隊、法律、財政が認められました。17-18世紀「共和 国」では政治的危機が高まり、1772年、1793年、1795年にロシア、プロシア、オーストリアに分割されて、「共和国」が消減しました。

19世紀のリトアニア

1800年代、リトアニア地域の政治支配の主役はロシアでした。政府は「ロシアの基本政策の復元」という政策を進めました。この政策の主要原則は、 「管理不可能なものは禁止、廃止する」というもので、特に打撃を受けたのはカトリック教でした。ロシア正教が導入され始め、各地の地名も変更されました。 「リトアニア」の名称は使われなくなり、公文書では「西の州」と記されました。ロシアは、徐々に発展してきたロシア的な教育施設や文化施設を通じて、ロシ ア正教の下でリトアニア住民のロシア化を進めようとしました。1864年、リトアニア文字は禁止され、キリール文字のみの使用が命ぜられ、リトアニア語の 出版物はその後40年ほど禁止されました。

Statue  リトアニアの歴史

リトアニア住民の一部(特に貴族)は、この情報を一時的なものと考え、ポーランド・リトアニア共和国の再建を目指してポーランドへ移住しました。ロ シアの領土内での位置は低く、歴史的な国名も消滅したにも拘らず、国家の再建は何度も計画され、1794年、1830-31年、1864年には反乱が起こ されました。

1864年の反乱の鎮圧は、リトアニアの貴族にとって大きな打撃でした。この頃から貴族の勢力が弱まり、知識層と農民の力が強くなってきました。政 治や文化の面で次第にリトアニア民族の新たな目標が生まれ、19世紀末には力強い民族運動となりました。1905年のロシア革命のとき、独立国家を求める リトアニア人の民族意識が、一層高まりました。

20世紀のリトアニア

第一世界大戦は、ロシアとドイツの二大帝国に混乱をもたらしました。このような国際情勢を巧みに利用して、リトアニアは1918年2月16日み独立 を宣言しました。隣国のラトヴィア、エストニアと異なり独立国の経験があるリトアニア知識層は、くにを造るというより国家を再建するという考えを強く持っ ていました。従って、リトアニアの国境の九九最適承認を求めることは容易だと期待していましたが、それは期待に反して困難を伴いました。ソ連赤軍からの防 衛、ポーランドの関係が問題になってきました。ポーランドはリトアニアとの共同国家を求めましたが、リトアニアが断ったために、軍事紛争が起きました。リ トアニアはポーランドからの独立を維持したけれども、歴史的な首都ヴィリニュスを含むリトアニアの東部はポーランド領となってしまいました。

Members of the Lithuanian Council リトアニアの歴史

Act of Independance リトアニアの歴史

1923年リトアニアは位ペーだ市周辺地域を連合国側から譲り受けて合併しました。これは独立時代における最も勇敢な行動であったと言えます。短い 独立時代は1918年から1940年まで続き、この間、近代リトアニア民族の存立基盤が築かれると共に、近代的経済が発展しました。特に発展したのは文化 と教育で、その最も優れた業績としては、文盲率が殆どゼロになったことが挙げられます。一方で、第一次世界大戦で達成した民主主義は、次第に危険に陥って きました。

1939年の秋、ソ連はドイツと、モラトフ・リッベントロップ協定を結び、それによってリトアニアに相互援助条約を結ばせ、少数の赤軍を受け入れさ せました。翌年6月14日、リトアニア政府はソ連から、ソ連に協調する政府をつくり、赤軍を自由にリトアニアに駐留させる頃の最後通牒を突きつけられまし た。外国の支援が得られなかったリトアニアは諦めざるを得ず、当時の大統領アンターナス・スメトナはドイツに逃亡し、リトアニアのソ連編入は、民族の意思 と相反するものでありながら、リトアニアの法律によって行われました。

Molotov-Ribentrop pact リトアニアの歴史

Okupation リトアニアの歴史

ソ連への合併後、リトアニアで急速なソ連化が始まりました。リトアニアの行政、経済、教育、文化などの制度はソ連型に改変されました。1941年6月14 日、リトアニア住民のシベリアの大量追放が始まり、最初のソ連占領時代に計約17500人が追放されました。1941年夏には、ソ連赤軍が退去してナチス 陸軍が侵入してきました。ナチスは3年間に数多くの悪事を働きましたが、最も恐ろしいことはリトアニアに居住していたユダヤ人の90%(凡そ20万人)を 虐殺したことです。1944年夏、ソ連軍はリトアニアを再び「解放する」動きを始めました。戦後、リトアニアは西ヨーロッパ諸国がソ連の占領地域を奪還す ることを期待していましたが、逆に、ソ連は1939年―1940年の占領地域を手に入れた上、東ヨーロッパをも手に入れました。そこで、リトアニアではゲ リラ活動が始まり、それは1953年まで続きました。戦後のリトアニアでは、2万人の「森の兄弟」が命を落としました。1945年の冬、再び大量追放が始 まって、1953年秋まで11万人以上がソ連の奥地シベリアに追放されました。

Partisans リトアニアの歴史

Train siberia russia 1940 リトアニアの歴史

しかし、強力なソ連化の下でも、リトアニア人は完全なソ連人にはなりませんでした。M.ゴルバチョフのペレストロイカが、ソ連支配の基礎となっていた恐怖 の雰囲気が解消した直後、リトアニアのソ連人はリトアニア国民となりました。1990年3月11日、リトアニアは再度、独立を宣言し、ソ連邦の共和国の中 で最初の独立国となりました。1991年8月のクーデター失敗後、リトアニアはソ連邦から完全に独立したリトアニア共和国となり、国民は自らの将来を創造 する自由を得ることができました。

Lenin リトアニアの歴史

 

 

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