リトアニアで見つけた小さな日本

瓢箪から駒とはこのことであろうか?造園家でもないただの庭園愛好家にすぎない私が、リトアニアくんだりで日本庭園のプレゼンテーションを行うことになるなんて。それも英語で。

 それは、たった一本のスカイプを通じた5か国語を駆使する美女との出会いから始まった。自己紹介で、「冬は英語で外国人にスキーを教え、夏は自宅の日本庭園を30年前からつくり続けている。土木出身ではあるが、インスピレーションとパースピレーション(汗)が形になり、レガシーとして永遠に残せる庭づくりにはまっている。」と言ったら、リトアニアにも日本庭園はじめ、日本文化に興味を持つ人が多くいるとのこと。私は、退職後、オリンピック通訳を目指して英会話に取り組み、刺激を求めて、コンテストに出るためプレゼン練習を始めたばかりだった。何かできることはと問いかけたら、日本文化を伝えてほしいとのことで、さっそく出かけてみることにした。

プレゼンは、平成30年8月26日に実施した。わずか5日前にSNSで募集開始したばかりというのに、200人余が興味を示し、25人が参加してくれた。始まる前の雑談で、“empty”や“nothing”すなわち「無」になれるという日本庭園の真髄に迫るような言葉が、彼らの口から飛び出してきたのには驚いた。内容を要約すると、1)和風庭園と洋風ガーデンとの違い、2)借景、写景、縮景といった日本庭園の作庭方式、そして3)なぜ、日本庭園にのめりこんでいったかであった。最後まで、真剣な眼差しで聞いてくれ、講演後は室内外で質問攻めにあった。

翌日には、日本庭園に造詣が深く、日本文化普及の功績が認められて、日本政府から叙勲されたリトアニア盆栽協会長宅に招かれた。氏は、シベリアで、流刑者の子として生まれ、やっと帰ったリトアニアから、今度は意に反してアフガン戦争に赴き、身も心もいたく傷ついたとのこと。しかし、保養地で偶然見た日本庭園の写真が人生を変えた。心は癒され、自らの手によって同じ庭を造らなければとの強い思いを抱くようになった。教科書もなく、勘による仕事を続けた結果、漸く過去を忘れることができたとのことである。

これらのほかに、日本文化の橋渡し役ともいえる方から、麻織物の研修を受け、陸上競技連盟会長を表敬訪問した。また、世界遺産として登録されているビルニュス旧市街では落ち着いた空気の中でゆっくりと過ごすことができた。

ところで、リトアニアにとって、杉原千畝を語らずして日本を語ることはまずないだろう。戦時の難しい状況下、ナチスの迫害から逃れるため、国に背いてまでも発給した日本への通過ビザ2,000通余。6,000人を救ったのだ。離任の日には、ビザを求めて人々が駅にまで押し寄せ、最後の1通は、汽車の窓からであったという。

 こうした正義の人のおかげで、日本人であることに誇りが持て、温かいホスピタリティと敬意のまなざしを感じることができた。そして、人々の心をいやすことができる日本庭園、盆栽、書道など日本文化を外国において再認識できた。最高のコーディネートをしてくれたIneza様をはじめ、リトアニアで出会い、温かく迎えてくれたすべての方々に心から感謝したい。

トラカイ城 湖の中の島に美しい城がある

リトアニア陸上競技連盟会長表敬訪問 

Author: BalticAsia

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